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松崎宿よもやま話 16話~20話

松崎宿よもやま話 16話から20話を紹介。(途中からご覧になりたい場合は、下のリンクボタンをおしてください。)

 

16話 17話 18話 19話 20話

 

 

 

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松崎宿よもやま話 16話

 

◎久留米藩主と御茶屋(おちゃや)

 久留米藩の郷士石原為平が記した「石原家記」の中に、次のような記事が紹介されています。

 宝暦(ほうれき)九年(一七五九)十二月「太守様松崎御出御逗留(とうりゅう)白鶴捕る」

 同十一年六月「松崎御泊、鷭鷹野有四日四ツ過 御帰城」

 これは、久留米藩第七代藩主有馬頼が鷹狩などで松崎の地に逗留したことを示しています。

 また、参勤交代に伴うものとしては、安永(あんえい)三年(一七七四)二月「今日は松崎御止宿前芝居御出にて例年より一ト時遅く御発駕」といった記事も見られます。

 このように、藩主はさまざまな用件で領内を移動しましたが、その際、藩主が休憩や宿泊に使用したのが「御茶屋」です。

 

◎御茶屋の普請と経営

 御茶屋が整備されたことを示す年代として一番古いのは、享保(きょうほう)三年(一七一八)で、その後何回か建て替えが行われています。先に紹介した「石原家記」の中にも、宝暦十一年「去年より羽犬塚御茶屋御普請当三日成就、松崎同」、安永二年「松崎御茶屋成就 惣建替に成」という記述があります。

 御茶屋は、基本的に藩主のために設けられた施設ですが、薩摩街道を参勤交代で往来する他国の諸大名や幕府の役人にも「本陣(ほんじん)」として使用させていました。

 御茶屋は藩営で、藩から給米を受けた「御茶屋守(おちゃやもり)」がその経営にあたっていました。

 

◎御茶屋の構造

 図1は現在の地図に明治二十年の字図を重ねたものです。明治初期に学校敷地として利用されていた青色部分が御茶屋への通路と主屋(おもや)部分と思われ、これで見ると、御茶屋の入口は街道にではなく、桜馬場(さくらばば)に取り付いていたことがわかります。

 御茶屋の敷地は二千坪を超え、椎(しい)や櫟(いちい)の大樹が繁る前庭の奥に、巨大な主屋が建っていたといわれています。主屋の詳しい造りはわかりませんが、大名を迎えるにふさわしい式台(しきだい)玄関や、上段の間があったことは間違いないでしょう。

 オレンジ色の部分は畑の地目ですが、青色部分を合わせると二千坪に近い面積になり、御茶屋の敷地を示している可能性があります。御茶屋の北側を中心に、藪が敷地を取り囲み(黄緑部分)、恐らくその内側には土蔵などの関連施設があったほか、上段の間に面した個所は庭園として整備されていたと考えられます。

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松崎宿よもやま話 17話 

 

 

◎町別当(まちべっとう)井上家に伝わる古文書

 松崎宿(松崎町)には、町全体の行政を管理する庄屋のほかに、宿場に関する業務(休泊施設の提供・旅人や荷物の搬送・飛脚等の通信業務)を取り仕切る町別当がいました。

 町別当を代々務めてきた井上家には、幕末から宿駅制度が廃止される明治初期までの宿場町の運営にまつわる古文書が数多く残されており、松崎宿の歴史を考える上で大変貴重な史料となっています。

 16話で、御茶屋の管理は御茶屋守(おちゃやもり)が行っていたと説明しましたが、この時期には、町別当の井上家が御茶屋守を兼ねていました。

 

◎御茶屋での休憩と宿泊

 井上家文書の一つ、「柳河藩知事様御帰国ニ付諸入用調子帳 朋君様御上京松崎町御止宿ニ付諸入用調子帳」には、明治二年八月二十六日に柳河藩主(藩知事)立花鑑寛(あきとも)が御茶屋で休憩した時の経費と、同年九月六日に久留米藩主有馬頼咸(よりしげ)の娘「朋君(ともぎみ)(姫)」が宿泊した際の経費を、御茶屋守が久留米藩の郡(こおり)奉行に請求した内容が記されています。

 まず、前者の休憩にかかった経費は、1.お茶を出すときに使用した茶釜や茶碗・火鉢などの備品の使用料(損料)、2.蝋燭(ろうそく)や薪・油などの消耗品購入費、3.水汲みやお茶沸かしなどに要した人件費と作業した人に対しての食事代、以上の合計七十六匁(もんめ)五分三厘となっています。

 これに対し、後者の宿泊経費は、照明にまつわる付け木(つけぎ)や灯心(とうしん)代、行燈(あんどん)の張り替えに要した紙代、お茶代、油・蝋燭代などの消耗品代のみの合計九十五匁六分三厘と、休憩費用に比べて割安となっています。

 これは、御茶屋が久留米藩の施設なので、オーナーである久留米藩主の関係者に対しては備品の使用料がかからなかったことと、雇った作業人の人件費・食事代が藩による査定で削られていることなどが要因となっています。また、御茶屋での食事や入浴の準備と世話は、通常家臣が行うため、それらに関する経費は含まれていません。

 ちなみに、一両=銀六十匁=白米一石=約八万五千円で単純に計算すると、休憩費用が約十万八千四百円、宿泊費用が約十三万五千五百円となりますが、現在の米価が相対的に安価なことと、幕末期におけるインフレ↓物価高騰のため、実際にはもっと高かったと予想されます。

 御茶屋守の仕事は、こうした経費に関する業務のほかにも、日程の調整や受け入れの準備、そして接待なども行い、相手が相手だけに大変気の要る仕事だったと思われます。

◎御茶屋跡に伝わる漆器

 図1~3は御茶屋の敷地を引き継いだ福永家に伝わる漆器類です。いずれも丁寧な蒔絵(まきえ)が施され、旅籠油屋の漆器として紹介した一般品とは異なり、上等品の部類に入ります。

 図3の重箱には久留米藩主有馬家の家紋である左三つ巴(どもえ)と一緒に、笹竜胆(ささりんどう)の家紋が描かれています。笹竜胆は伊勢亀山藩石川家の家紋で、久留米藩第八代藩主有馬頼貴(よりたか)の娘(順姫(じゅんひめ))が石川家に嫁いだことにちなむものかもしれません。

 福永家には、このほかにも、薩摩藩の島津家の家紋であるが描かれた重箱も伝わっていたとの話もあり、久留米藩はもちろん、御茶屋に休泊した諸大名からの下賜品などが間接的に伝えられてきた可能性があります。

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松崎宿よもやま話 18話

今回は、参勤交代の大名行列を受け入れる宿場町の様子についてふれてみたいと思います。

◎大名行列を迎える準備

 諸大名が宿場を通行・利用する際には、大名の格式に応じてさまざまな対応が求められました。
 まず、街道沿いでは、道路や橋の修繕・清掃を行うほか、道沿いの藪を刈り払ったり、松明(たいまつ)の準備等が命じられました。  休泊する御茶屋(おちゃや)では、屋内の掃除はもちろんのこと、外回りも掃き清め、門前には二つの水桶と一対の盛砂が置かれました。砂は雨が降った際に道を乾かすために使用されたと考えられます。前日からは宿場内の防火取締のために不寝番(ふしんばん)をたてて、警戒にあたったといいます。
 大名行列がいよいよ宿場町に入って来る時には、郡(こおり)奉行と御茶屋守(もり)が宿場口で出迎えるほか、松崎宿にあった番所前でも勤番侍以下が下座してこれを迎えました。一般の町民は、女性と幼少の男子は宅内で手をつき、男子は残らず庭(土間)に降りて下座して迎えなければなりませんでした。一口に大名を迎えるといっても、大変な苦労が伴ったのです。

◎宿割りと宿札(関札)

 参勤交代は一年ごとに江戸と国元を往復する決まりだったため、出発の数か月前には先触(さきぶれ)の家臣を出して、宿泊地ごとに御茶屋(本陣)や家臣の泊まる旅籠の予約を入れなければなりませんでした。また、出発がいよいよ近づくと、宿割役人を先発させ、各宿場町ごとに誰がどこの旅籠に泊まるのかを具体的に割り振ったといいます。
 宿泊当日の各旅籠では、この宿割りにもとづいて「薩州 西郷吉之助様」とか「吉田孫一郎様御上下二人御宿」といった、宿泊客を記した宿札を旅籠の表に張り出し、泊まるべき宿がどこか一目で分かるようにしていました(図1)。
 また、殿様の場合も「有馬中将泊」「松平大隅守泊」などと板書した宿札を御茶屋前に立てたほか、北構口の外側にあったという木戸(きど)(図2)にも宿札を掲げ、宿場内に大名が泊まっていることを知らせていました。

◎楽ではなかった大名行列

 大名行列というと、先頭を行く槍持(やりもち)の「下にィ、下にィ」の掛け声に合わせてのんびりと進んでいくイメージがありますが、これはお国入りや出国時、宿場内を通行する時ぐらいのもので、それ以外は道中の費用を浮かすために、かなりの強行軍となりました。先程の宿割りで宿泊地が決まっているため、「暮れ六つ(午後六時)泊まりの七つ(午前四時)立ち」ならまだ良い方で、夜半に着いて早朝には出発といったこともよくありました。
 先月号でも紹介した井上家文書の中には、明治二年に柳川藩主立花鑑寛(あきとも)と三池藩主立花種恭(たねゆき)が総勢三百三十四人で帰国した際に、当初は松崎宿に泊まる予定が急きょ手前の山家(やまえ)宿止まりとなってしまったため、キャンセル料として経費の半額壱貫(かん)四百拾九匁(もんめ)五分(ぷ)を松崎宿が請求した記録が残っていました。これは今の金額に換算して二百一万一千円に相当し(一両=銀六十匁=白米一石=約八万五千円)、「スケジュールの狂い」「大変な出費」となることから、大名行列も決して気楽なものではなかった事がわかります。

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松崎宿よもやま話 19話

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◎交通センター『駅伝(えきでん)』

 宿場町では、日常的に旅人や物資の運搬のほか、書状を運ぶ飛脚等、公用・一般を問わず、さまざまな交通・通信業務をこなさねばなりませんでした。これらの仕事を一手に行っていたのが駅伝"問屋場(といやば)です。  駅伝は現在で言うと、1電車・タクシー・バス乗場 2流通センター 3郵便局を兼ね備えた施設にあたり、大名行列が通過する時には、駅伝周辺は戦場のような騒ぎになったといいます。

 

◎駅伝の建物と問屋役人

 松崎宿の駅伝は、松崎郵便局の北隣にありました(図1)。  駅伝の建物は、間口六間、奥行五間の一部二階建てで、南側の間口二間部分は土間だったそうです。図3は浮世絵に描かれた問屋場の様子ですが、松崎の駅伝では庇(ひさし)を短く造り、馬上からでも書状の受け渡しができるようにしていました。  駅伝には町別当(まちべっとう)の支配の下、問屋役二人と馬差(うまさし)・人足差(にんそくさし)が詰め、荷物の受け渡しや駕籠の手配を行いました。松崎宿の場合、人足十五人、馬十匹、駕籠十丁を常時備え、大名行列が通過するなどで人馬が足りない場合には、近在の村々から応援を頼んでいました。また、駅伝の周辺には、人足長屋や馬小屋などの建物があったといわれています。 

 

◎井上家に伝わる人足札

 図2は町別当を務めていた井上家に伝わる人足札です。長さ十三センチほどの木札で、表には「十番 銀弐匁(もんめ)」とあるほか、  「正種」の焼き印が押してあります。裏には「四十枚之内人足壱人」とあり、四十枚あるうちの一枚であることが分かります。  これらの内容は、人足一人に対しての何らかの賃金を示すものと考えられ、図にもあるような、仕事を割り振られた人足に対して先に木札を渡し、業務終了後にお金に替えた可能性があります。駅伝業務は、人馬が入り混じった大変な混雑の中で行われるため、このような札が必要だったのでしょう。 

 

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松崎宿よもやま話 20話

yo20.jpg松崎宿では、人足十五人、馬十匹、駕籠(かご)十丁を常時備えていたといわれますが、いったいどんな様子で働いていたのでしょうか。

 

◎人足長屋(にんそくながや)と人足の仕事

 図1は、地元で人足長屋があったと言い伝えられている場所で、駅伝(えきでん)(問屋場(といやば))の斜め向かいにあたります。どんな建物の構造だったかは分かりませんが、ここに人足たちが常時詰めていて、駅伝の人足差(にんそくさ)しの手配のもと、主に荷物の運搬や駕籠かきの仕事に従事していました。  人足の賃金は時代によって異なりますが、十九世紀前半ごろには、一里(約四キロメートル)あたり十六文と定められていました。前々号で紹介した人足札で賃金の支払いを受けていたと考えられます。

 

◎街道を支えた馬

 図2は、駅伝の向かい側の写真で、馬小屋があった場所といわれています。人足長屋と同様に建物の構造は分かりませんが、明治時代には馬に替わって人力車が置かれていたという伝承があります。  馬は宿駅制度の維持には欠かせない動物であったと同時に、持ち主にとっては大きな収入源でもあり、大切に扱われたといいます。  馬の使用料には本馬(ほんま)と軽尻(かるしり)の二種類があり、それぞれ一里あたり三十二文と二十四文しました。隣の宿場町である府中宿までは約三里あるので、本馬が百文、軽尻が七十二文と定められていました。  ちなみに、目的の宿場町で荷物を下ろして松崎宿に帰る際、空のまま帰るのはもったいないので、「戻(もど)り」と称して安く人を乗せたこともあったようです。  立ち喰い蕎麦(そば)が十六文、一泊二食付きの旅籠代が二百文前後の時代ですので、どの程度の金額だったか、想像してみてください。  

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