HOME > ようこそ小郡へ > 松崎宿の文化財マップとよもやま話 > 松崎宿よもやま話 21話~25話
松崎宿よもやま話 21話~25話

松崎宿よもやま話 21話から25話を紹介。(途中からご覧になりたい場合は、下のリンクボタンをおしてください。)

 

21話 22話 23話 24話 25話

 

 

 

※本文の写真及びイラストは、画像をクリックして頂くと拡大してご覧いただけます。


 

松崎宿よもやま話 21話

 

◎三井高校作成の松崎宿図

 これまで旅籠油屋と松崎宿の主要な施設について紹介してきましたが、他の建物もあわせて全体を振り返ってみたいと思います。  図?Tは、一九六四年に三井高校の郷土研究クラブが作成した松崎宿図です。これは、松崎の古老に聞き取り調査をしながら幕末段階の状況をまとめたもので、いくつかある松崎宿図の中で最も信ぴょう性が高いといわれているものです。

 

◎旅籠屋の屋号

 幕末の慶応二年(一八六六)の松崎宿には百二十九軒の家があって、その内の二十六軒が旅籠を営んでいたことが古文書で明らかですが、ここにはそれらの旅籠の屋号が紹介されています(黄色で示した家)。  屋号には、草野屋・姪浜屋・田代屋・甘木屋といった地名にちなむ屋号のほかに、油屋・米屋・糸屋・魚屋といった「職業替えをして旅籠屋になったのか?」と思わせるようなものも多くあります。旅籠の経営もなかなか難しかったといわれますが、何代目かには廃業してしまう旅籠がある一方で、新規に旅籠経営に乗り替えてくる家もあったのでしょう。なお、旅籠は上町から中町に集中していたことが分かります。

 

◎宿場(町)役人の家

 この図には、松崎宿の主要な施設(赤色で示したもの)だけでなく、宿場町の運営にたずさわる宿場役人の家も具体的に示されています(青色で示した家)。  庄屋と町別当は、幕末にはそれぞれ井上家が務めていました。また、それを補佐する町役人は上・中・下町より一人ずつの割り当てとなっていましたが、中町の町役人は明らかにされていません。  久留米藩の出先機関である松崎番所(北構口横)には、勤番侍(きんばんざむらい)が勤務していましたが、桜馬場沿いに家宅が示されており、松崎宿に常駐していたものと思われます。 その他の家々  松崎宿にはこのほかにも、米や味噌などの食料品や、雑貨用品などを商うさまざまな商家が軒を連ね、商店街としての活況を呈していました。  また、煮売屋(にうりや)が六軒あったことが記録に残されていますが、これは今で言う居酒屋のことで、旅籠と共に宿場町の繁華街的性格を物語るものといえます。こうした宿場町の性格を語る際には、飯盛女(めしもりおんな)の存在は欠かせませんが、これについては、号を改めて後に触れたいと思います。 

 

▲現在の松崎

▲桜馬場での桜まつりの様子

go_toppage_green.jpg

 

 

 


 

松崎宿よもやま話 22話 

 前号でもふれたように、松崎宿にはさまざまな屋号を持つ旅籠がありました。今回は、油屋以外に今も残る二軒の旅籠を紹介します。  図1は、松崎中町の旅籠「一松屋」です。平成三年の台風によって屋根がトタンに変わっていますが、本来は茅葺きの屋根でした。部屋の意匠から、十八世紀後半にさかのぼる可能性があります。

 

◎旅籠「一松屋(いちまつや)」

 写真では分かりませんが、建物の右側部分には街道に面して式台玄関(しきだいげんかん)が設けられ、そこから奥は三間続きの座敷となっています。油屋の座敷と同様に、格式の高い造りで、主に賓客(ひんきゃく)を休泊させていたと考えられます。客室として使われたのはこの座敷のみだったと考えられ、旅籠とはいえ、非常に特徴のある造りとなっています。規模は違いますが、同様の造りは殿様専用の休憩施設「銀杏屋(いちょうや)」(北九州市)でも見られ、一松屋には何か特別な用途があったのかもしれません。  なお、明治初期には郵便局として使用されるようになり、写真左側の洋館風の建物は、昭和初期に拡張された建築と考えられています。

◎旅籠「鶴小屋(つるごや)」

 もう一つの旅籠は、松崎下町にある「鶴小屋」です(図2)。家主の黒岩家は、松崎周辺に飛来する鶴の番を役目とした「御鶴番(おつるばん)」を代々勤め、幕末にこの地に屋敷を構え、以降明治にかけて旅籠を営んでいたといわれます。  ちなみに、鶴は江戸時代当時、格式のある食膳に欠かせない高級食材で、有馬の殿様が鶴狩りで松崎に来たり、将軍家から鶴を拝領したことが記録にも記されています。  調査の際に、屋根裏から棟札(むなふだ)が見つかり、この建物が明治二十八年に建てられ、建主が黒岩宗吉、大工が松崎の高原岩吉だったことが判明しました。屋根は当初から瓦葺きだったと考えられ、二階には街道筋側に沿って三部屋を並べ、主にここを客室に使用していたと考えられます。  保存状態が良く、街道がにぎわいを見せていた明治期の代表的な旅籠として大変貴重です。  一つの宿場町に三軒の旅籠建築が残っているのは、今となっては珍しく、油屋と共に是非今後に伝えていきたいものです。 

 

go_toppage_green.jpg

 

 

 


 

松崎宿よもやま話 23話

◎さまざまあったお宿

宿場町の役割の一つに、街道を往来する旅人たちに休憩・宿泊施設を提供することがありました。  一口に休泊施設といっても、旅人の身分や格式に応じて、あるいはそのふところ具合によって、上は殿様だけが利用できた「御茶屋)や」から、下はごくごく小さな旅籠まで、大小さまざまなお宿があったのです。旅籠油屋は賓客専用の座敷を備え、その中でも比較的ランクが高かったのは、これまで紹介してきたとおりです。  今回紹介するのは、「木賃宿(きちんやど)」と呼ばれるもう一つの宿泊施設です。

 

◎安く泊まれた木賃宿

 木賃宿の木賃とは、旅人が持参した米や干飯(ほしい)を煮炊きする薪代のことで、旅人は宿で米を炊いてもらい、使った薪代だけを負担することで安く泊まることができるというものです。その代わり、お給仕が付いたりするようなサービスは全くありません。  図1は浮世絵に描かれた木賃宿の様子ですが、粗末な建物の中に囲炉裏(いろり)を囲んでいる人たちの姿があります。木賃宿を利用する主な旅人客は、旅芸人・行商人といった旅の中に生業(なりわい)を持つ人たちや、巡礼や人足などの旅にお金をかけることができなかった人たちです。

 

◎木賃宿は旅籠の原型

 木賃宿は、旅籠の変遷を物語るもので、古代以来食料だけを持参して民家や寺社に頼み込んで泊まっていたのが、戦国時代ごろになると、木賃だけをもらって宿泊させるようになったといいます。  一泊二食風呂付の旅籠(図2)が一般化するのは、全国的に街道の整備が行き届く十七世紀前半以降のことで、社会全体の生活の向上に伴い、こうした木賃宿も次第に姿を消していきました。

 

◎昭和まで続いた木賃宿

 幕末から明治時代の松崎宿には、南枡形(みなみますがた)付近に二?三軒の木賃宿があったといわれます。木賃宿は旅籠を専業にする家とは別扱いで、農家や他の職業を持つ家が木賃宿を営んでいたという話もありますが、残念ながらその実態はよくわかっていません。  松崎宿の木賃宿は、戦中から終戦直後にかけて残っていたといわれ、やはり行商人の人が泊まっていたそうです。このころは簡単な賄いは付いていたようで、自炊をしながら長期滞在する人にも利用されていたとのことです。 

 

go_toppage_green.jpg

 

 

 


 

松崎宿よもやま話 24話 

今回からは、松崎宿を離れて周辺や街道筋に関することを紹介していきます。その前提として、まずは江戸時代の街道について概要をお話したいと思います。

◎江戸幕府と街道整備
 慶長八年(一六〇三)に徳川家康が征夷大将軍に任命されると、江戸は名実共に天下の中心となりました。その後の幕藩体制の確立とともに、諸大名が一年おきに江戸と在国を往復する参勤交代が始まり、街道の整備が急務となりました。また、多くの武士や奉行人を抱える江戸は、多くの物資を他に頼る一大消費地でもあり、物流の確保の面からも全国的な交通網の整備が求められたのでした。

◎江戸の大動脈・五街道
 江戸幕府が特に重要視したのが、いわゆる「五街道」と呼ばれる主要街道(図1)で、東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中からなります。これらの街道は江戸に直結する大動脈で、五街道を通る領地のほとんど全てが、天領(幕府の直轄地)や親藩(徳川家の一族)・譜代大名(徳川家家臣)によって押さえられていることからも、その重要性が分かります。  五街道では、関所や番所を網羅的に配置し、諸藩などの在地勢力を媒介とせずに幕府(道中奉行)が直接支配していました。

◎地方の脇街道
 五街道以外にも、各地に数多くの交通網が整備されましたが、これらを一般に「脇街道」といいます。
 幕府直営の五街道に対して脇街道では、基本的な運営は街道筋にある諸藩に任せられ、幕府でも財政部門を扱う勘定奉行が間接的に関与するにとどまる点が五街道との大きな違いといえます。

◎久留米藩の街道事情
 図2は久留米藩内の主要街道を表したものですが、大小さまざまな街道があり、主要な箇所には人馬継立を行う「駅」を設置して、物流の拠点としていました。
 その中でも、太線で示した「松崎」・「府中」・「羽犬塚」を通る薩摩街道は、小倉と鹿児島を結ぶ主要幹線道路(今で言う国道三号線)であると同時に、参勤交代道路としても位置付けられていたため、これらの三つの駅は宿場町として繁栄していったのです。  また、久留米城から見た場合、松崎宿が北辺の国境部分にあたるため、久留米藩の運営・防御上、重要視されていたことは、これまでに述べてきたとおりです。 今号からは、松崎宿を離れて周辺や街道筋に関することを紹介していきます。その前提として、まずは江戸時代の街道について概要をお話したいと思います。

 

go_toppage_green.jpg

 

 

 


 

松崎宿よもやま話 25話

yo25.jpg 前号で街道の概要についてお話ししましたので、ここからは薩摩街道にまつわるものを紹介していきます。
 

◎街道に植えられた樹木
 江戸幕府が直接把握していた五街道では、道標や旅人に日陰を提供するものとして、街道筋に樹木を積極的に植え、これを各地元の村々に管理させていました。特に東海道では、図1のような松並木が今も多く残され、大切にされています。 各地の脇街道も、基本的にこれにならったものと思われますが、九州近辺で見た場合、一部の例外を除いて五街道ほどの整備は行われなかったようです。松崎宿の所属する久留米藩も同様で、並木というよりは、街道の要所に樹木を植える程度だったと考えられます。

◎国境に植えられた榎
 図2は筑前・筑後国境石の向かいにある榎の大木です。正確な樹齢は不明ですが、石碑と思われる石の板を幹に取り込み、歴史の重みを感じさせます。
ここから北側の筑前国に入った箇所に昔は松があったといわれ、国境を示す木として福岡藩が松を、久留米藩が榎をそれぞれ植えた可能性があります。国境石が整備される前は、これらの樹木で国境を示していた時期があったのかもしれません。

◎茶屋に植えられた榎
 図3は昭和三十年ごろの光行近辺を写した写真で、榎の大木が何本か見られます。残念ながら、伐採されて今は見ることができません。
光行には、江戸時代には旅人が休憩するための茶屋が何軒か軒を連ねていたといわれ、光行茶屋とも呼ばれている場所です。榎は茶屋のあることを示す目印として植えられたと考えられ、旅路を急ぐ旅人からは、遠くからでも目に入ってきたことでしょう。
これらのことからは、久留米藩では主に榎を街道筋の目印として植えていたことがうかがわれます。
なお、街道に植えられた樹木とは異なりますが、久留米藩では蝋の原料となる櫨の実の生産に力を入れており、櫨の木が各地で積極的に植えられていました。秋には、田園風景の中で紅葉した櫨の木々が街道からも見られたことと思われます。 

 

▲図2 国境の大

     (小郡市乙隈/筑紫野市西小田)

▲図3 茶屋に植えられた榎(野口恭彦氏撮影)

go_toppage_green.jpg

 

 



このサイトについてNPO法人 地域インターネットフォーラムご意見・お問い合わせ